Thinking Path
僕という編集者の考え方


論破されるために議論する

さて、以前も書いたように私は、議論屋で通っている。しかも、かなりの理論家で、理詰めでどんどん追いつめるもんだから、会議やMLでは「いやな奴」と思われることも多い(最近はだいぶん丸くなってきたと思うのだが)。また、まだまだ「若気の至り」が抜けないせいか、熱くなることもしばしば。メール新聞の編集長をやっていたころには、クレームを入れてきた読者に返事を書くばかりでなく延々議論したことも数多い(普通の「大人の編集長」なら見て見ぬ振りをするものだ)。

結論として「あなたは相手を追いつめて論破して誇りたいのか」とか「あなたは自分の意見をそんなに押しつけたいのか」と言われることも多い。

だが、それだけは

「違う」

と言いたい。

だいたい私は、論破するために議論なんかしていない。「論破される」ことを望んでいるのだ。

論破するというのは、確かに「表面的なところで」は非常に快楽である。まー、小学校のかけっこから、受験、昇進、昇給。何にしても人に「勝つ」ってことに快感を感じない人間がいたら、そっちの方がおかしい。だが、それは「絶対的なところで」、足が速いとか、勉強の成績が良いとか仕事の手腕に優れているとかそういうことが自分にとってプラスなだけであって、「相対的に優位」であることは「偶然の産物」でしかない。勝った負けたは相手の問題なのである。

ましてや、議論では勝ったところで何も得ることはない。むしろ、虚しいだけである。なぜなら、

「そもそも論破して残るのは自分の考えだけであり何の進歩もない」

からである。これが、論破されたのなら違う。たとえ議論の直後では完全に納得できていないにしても、論破されたということは、

「新しい考え方を知り、自分の考えたを進化させるチャンスを得た」

ということなのだ。これはすばらしいことではないか。

そのためには何をすれば良いか?それは、相手の考えをすくい上げるようにすること。そして、自分の考え方をできるだけわかりやすく説明することだと思う。そして、最も重要なのは

「ベーシックな部分で議論する相手を信用する」

ということだと考える。相手を信用せずに議論すれば、どうしても攻撃的になるし、また「どうせこんな相手だから」という軽蔑した気持ちが暗に表れる。そうなれば、当然相手も良くは思わないから、攻撃的になる。この悪循環に陥るのである。

むろん、私も人間なので一時的に「カー」となることもあるのだが、できるだけそう思うことにしている。そうでなければ、単なる「論破のための議論」か「相手を見下すための議論」になってしまうからだ。相手は自分と違う考えをもっているのだから、「論がかみ合わない」のは当然であるし、「理解してくれない」のも当然だ。だからこそ、まず自分が最大限の努力をしようと思う。

「相手は自分とは異なる」

こうした気持ちを、上下関係なしに理解することが何よりも大事なのだと思う。そのためには、「相手の意見の正当性を理解する」というベクトルが必要だと思う。むろん、その先に「やっぱり自分の意見の方が妥当」ということもあるだろう。それでも、相手の意見を理解すれば、それは一つの考え方を理解したという意味で、やはり自分のプラスになると思うのである。


(c) 1998, Kenji Yamashita
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